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家族を亡くすということ

随分更新が滞ってしまいました。

実はずっと闘病生活をしていた同居の父が先月急死いたしまして
嵐のような日々をすごしておりました。
落ち着いて言葉をつづる余裕もまだありませんが
ご報告しきれていなかった皆様に、この場でお詫び申し上げます。

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(重い内容なので以下は読まなくても結構です)

かなり長くなりますが、父の最期をお伝えしようと思います。

父は腎不全で人工透析を始める予定でした。
9月のはじめに急に体調を崩し、何も食べられなくなってしまったので
入院し、そのまま透析の準備もすることになりました。

9月の後半に退院することになり、
私達家族は「透析患者の食事について」という指導を受けに病院に呼ばれました
生の果物を食べてはいけない、と言われ
父は庭のブドウがどうしても食べたいなあ、と残念そうでした。
ジャムならいい、とのことでしたので、私は早速ブドウのジャムつくりに挑戦しました。

ところが急にお腹の痛みを訴えはじめ、胃の検査をしても何も見つからないのですが
本人は大変くるしみ、胃カメラの最中に気を失ってしまうほどでした。

胃カメラの翌日、母が心労でダウンしたため私が病院に行くと
父の姿はすっかりやつれはて、退院なんてできるとは思えないほど変わってしまっていました。

その晩、父から電話がありました。
一緒に住んでいたので、わたしの携帯に父から掛けてくることなどなかったのですが
やけにおだやかな声で、「ブドウのジャムありがとう。何も食べれないけどこれはうまい」
何度も何度もありがとうと言うので、私は泣いているのを悟られないように必死でこらえました。

そのあと数日して病院からすぐに来てくれ、と呼び出しがかかりました。
容態が急変し一両日中かもしれないと言われました。
この時、はじめて父が末期ガンだと家族に知らされたのです。

慌てて東京の弟を呼び戻し、父の兄弟も地方から駆けつけました。
その日から母は病院の個室につきっきりになり
私は弟と親戚を車に載せて家と病院を往復、自宅は合宿状態になりました。
そして父の食べたいものと、母のお弁当、親戚や家族の食事を一人もくもくと作っていました。

それから父は一週間がんばりました。
学生時代の友人や、高校の時の先生、親戚に知人と連日お見舞いに来てくださいました。
病院の個室は常に人があふれ、立ち見状態
時には学生時代に戻って爆笑し、時には高校の思い出を先生と語り
にぎやかに最後の日々を過ごせて父も本当に幸せだったと思います。

深夜や明け方に状態が悪くなると、母からわたしの携帯に電話がきました。
苦しそうな父の呼吸音が聞こえ、私は頑張って、と声をかけ続けました。

いよいよ痛みがひどくなり、モルヒネの投与がはじまりました。
そこからはあっという間で、薬の量をどんどん増やしても効かなくなりました
麻酔を使うと痛みは和らぐが、意識が無くなるといわれ、ギリギリまで我慢していました。
麻酔を打てば、もう父は戻ってこないのだろう、と皆覚悟するしかありませんでした。
30分おきにモルヒネが増えていき、痛みは治まらず
とうとう母が「これ以上苦しませないでください」と決断し、麻酔を投与されました。
その場にいた全員と別れのあいさつを交わし、父は眠りにつきました。
翌朝、父はそのまま意識を回復することなく逝ってしまいまいました。

母の意向で、葬儀は自宅でしめやかに行うことになりました。
父と懇意にしていた個人の葬儀屋さんが自宅にちいさな祭壇をつくってくださり
通夜では(普通の葬儀ではやりませんが)生前父と親交のあった皆様が、順に父との思い出を語って
最後は歌をうたってしめくくられました。こんなに沢山の皆様に送っていただいて
感謝の気持ちで一杯です。


父の亡くなる前の晩、寝付けずに起きていたわたしに、弟が言いました。
「皆が泣いているから、もらい泣きするけれど、本当にかなしいと感じられない」
不満や怒りが先に立ち、どうしても父を思うことができないと。

施主の挨拶を考えていても、父に対する怒りばかりがこみあげてきたといいます。

通夜での皆様からの言葉をいただいた後、弟の様子が変わりました。
形式的な挨拶の文章をつらねた原稿をたたむと、自分の言葉で語り始めました。
それは息子からの父への素直な感謝の言葉でした。
告別式でもお経が始まった途端に大泣きで、こらえていたわたしの方がもらい泣きしてしまいました。

無事に葬儀を済ませ、いろいろな手続きをしたり、来客をお迎えしたりと
あっという間に日々が過ぎていきます。
雪が積もって墓苑が閉まってしまう前に納骨しなくてはならず、
忌明け後に石狩にあるお墓まで母と妹と三人で行きました。
天気予報では雪でしたが、とても良いお天気になり
おだやかな秋の海を眺めながら、父を祖父母のいるところへ送ってまいりました。
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私は父とは本当に仲が悪かったと思います。
生意気ばかり言って、親を親とも思わないような態度をとりまくり
父の方も、私のやることにいちいち反対しては頭ごなしにダメだと決め付ける。
男に生まれていたら殴り合っていたにちがいありません。

札幌に戻って工房を構えてからもいろいろありましたが
病気をしてからはとにかく元気でいて欲しいと必死でした。

片方の腎臓がダメになったとき、腎臓病の人の情報誌を見つけてきて購読しはじめました。
父は「おれはまだ透析患者じゃない」といって
たいして興味なさそうにしていたのに、実はしっかり読んでくれていたようで
いざ透析となったら「腹膜でいきたい!」とか言い出したり
「ここの看護士さんに○○通信って知ってるか聞いたら皆しらないんだよ!」
など得意げにしていたのが思い出されます。

あまりに減塩に努めていたせいか、いまだに外食が塩辛く感じますし
低蛋白、高カロリーな食生活に合わせていたらこちらが太ってしまい
逆に野菜多めにすると、父がまず痩せてしまって慌てたり、本当に食事に気を使いました。

その甲斐あって大変調子が良くなって、「このままいけば透析は随分先ですね」と言われ
喜んでいたのに、また数値が急激に悪化して、
変だなあ?と首をかしげていたその頃にガンになっていたようです。

6月にたまたまエコーを撮っていて、その時には何もなく
9月にもしやとエコーを撮れば、すでに多臓器不全
最後までなぜなんだ、と医者に疑問をぶつけていた父の思いをくんで
解剖のお話がでたときも家族一致でお願いしました。
一週間前のエコーで全体にガンが散らばっていた肝臓は、すでに腐敗がはじまっていたそうです。
まるでスキルス性癌のように、あっという間に父の命を奪い去ってしまいました。

肝臓の数値が悪くなったのもつい最近のことだったので
いかに進行が早かったか。
私達はただなすすべもなく命が消えていくのを見守るしかありませんでした。
ただただ元気になって、と必死だった私は
目の前でどんどん衰えていく父の姿に耐えられませんでした。
医者でさえお腹をひらくまでわからないものを、わたしに何ができたのでしょう

最後の食事は父のリクエストでそばになりました。
朝母からの電話で、「お父さんおそばが食べたいって!」
私は急いでお湯を沸かし、そばを茹で、長ねぎを刻み、わさびを添えて弁当箱に詰め込みました
途中で早朝から空いているスーパーで天ぷらを買い、病院へ
駐車場に停めるのに時間がかかるので、弟に持たせて先にいってもらったので
私は食べているところは見ていませんが、
父は大変喜んで、箸をとんとんと揃えてそばをつまみ、
勢いよくすすって食べたそうです。
私が病室につくと、「うまかったー」と言って、満足そうにしていたので
食べたかったものを食べられて本当に良かったな、と思いました。

先週四十九日が過ぎました。
来客を迎えた後、祭壇を片付け、少しずつ日常が戻ってきています。
この際にすっきりしてしまおうか、と
いろいろ処分したり片付けたりしています。
私が仕事で家を空けるとSNSにかきこむと、母を心配してご近所のお母さんが
いろいろご馳走をもってきてくれたり。本当にありがたいです。
妹も毎週末に家に来ては、掃除や庭木の冬囲いなど手伝ってくれています。
皆で支えあいながら、何とか乗り越えていこうと思います。



長くなりましたが、わたしから見た父の最期をつづりました。
これを書きながら号泣して少しすっきりしました(笑)
やることは沢山あっても、なかなかはかどらなくて
イライラしたり泣いてみたり
母を支えなくちゃ、と思いつつ
じゃあ私を誰が支えてくれるかというと
結局母に支えられているような

本当に疲れきってしまって、まだまだ元にはもどれませんが
今年は早めに仕事を終わらせて、のんびり年越しして
来年は元気よく頑張りたいと思います。
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Commented at 2015-11-30 23:49 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by usagi_pinot at 2015-12-01 14:41
長文読んでくださりありがとうございます
父親と息子ってやっぱり難しいですね。
最後に素直に弔う気持ちになれてよかったと思います。
おばさんにもよろしくお伝えください。先日お電話いただいてお体心配しています。
by usagi_pinot | 2015-11-30 20:56 | nikki | Comments(2)